新成人の諸君へ
本日は成人の日。
新成人諸君の中には、晴れやかな気持ちで本日を迎えた人も少なくなかろう。大人への階段を上る日として、あるいは、旧友と再会する日として…。
ここで、2つ、新成人諸君に質問したい。
- 君は成人式に出席する(した)か?
- 成人式に出席するにあたり、後ろめたい点がなく、晴れやかな気持ちで臨めるか?
この2つの質問に両方ともYESと答えることが出来るならば、君はその時点で私よりもはるかに幸せな人生を歩んでいる。そして、今後も恐らく私よりも不幸な人生を歩むことはなかろう。
不幸自慢をしたいわけではない。新成人諸君に、少し考えて欲しいことがあるだけだ。
諸君の周りに「成人式に出席できなかった」人はいないか?
諸君の同級生が全員無事に問題なく成人式に出席できたというのであれば、ここから先を読む必要はない。
もし、ひとりでも周りに「成人式に出席できなかった」人がいるならば、なぜその人がその場にいなかったのか、少し考えてみて欲しい。
私自身の体験を述べると、私は成人式に「出席できなかった」。
理由は単純で、小中高の同級生のほぼ全員と仲が悪く、学校内では常に悪意に晒されながら過ごしてきたからだ。青春時代なんて、自分にとっては青くなくどす黒かった。
諸君の大半は、恐らく、成人式を「大人の階段を上るための儀式」と考えているであろう。
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しかし、私にとっては、成人式への出席は死地に赴くにも等しい嫌忌すべき行為であった。そもそも、周囲に悪意むき出しの者たちが大勢いる中で儀式もへったくれもない。いわば、犯罪者予備軍の群れに飛び込むにも等しかった。
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気のせいと思い笑う者もいるかも知れない。だがこれは決して気のせいではない。
その証拠に、私は小中高(そして大学)と、一度たりとも同窓会の類いの集まりに呼ばれたことがない。
同級生たちにとって、私は「存在しなかったこと」にされているのだ。
他者への想像を出来てこそ一人前の大人だ。
新成人諸君よ、君たちの周りにも、「存在していないことにされている」人はいないか?
もし思い当たる節があるならば、なぜその者が諸君の前に姿を見せないのか、少し考えて欲しい。
思い当たる節がなくても、同級生の中に、別に遠方にいたり入院したり、それこそ他界したりしているわけでないにもかかわらず、成人式の場に居合わせない者がいるならば、なぜその者がいないのか、考えて欲しい。
それらについて考えることが出来ない、あるいはしたくないと思う者もいるかも知れない。だが、そのような態度を取る者は、成人式を過ぎようがガキのままだ。否、40を過ぎても50を過ぎても還暦を過ぎても、他人についておもんばかることができない者はガキだ。
併せて、今日の己の幸せは「存在していないことにされている」人を踏み台にすることによって成り立っているということについても、認識して欲しい。
自分と異なる境遇に置かれている者について、少しは想像力を働かせてみて欲しい。それが出来るようになって、初めて一人前の人間と呼ぶことが出来よう。
昨今、自分よりも弱い立場に置かれている者に対して冷笑することがあたかも正しいことのように思われている風潮があるが、これは冷笑している本人を含め誰も幸せになれない。他者を冷笑することを煽ることによって民衆の分断を図ろうとする悪人どもが喜ぶだけだ。
一時の愉悦に身を委ねて不幸への道を突き進むか、それともみんなが幸せになる社会を目指そうとして少しでも世の中をよくする道を選ぶか、それは諸君次第だ。だが、私は不幸への道を突き進むことを勧めない。不幸への道を突き進む行為は、己だけではなく周囲をも巻き込むからだ。
今後、社会に出れば理不尽な思いをさせられることが多くなるであろう。しかし、諸君の周囲にいる「存在していないことにされている」人はそれをもっと早くから味わっている。理不尽を理不尽のままにせず、少しでも改善する道を歩むためにも、「存在していないことにされている」人のことを考えて欲しい。それはめぐり巡って諸君の人生にとっても必ずやプラスになるはずだ。