国や郷土を愛するということ・2024
3連休中日となった建国記念の日。私はまだ確定申告の準備を出来ておらずに焦っております。
Wikipediaによると、建国記念日が何故2月11日であるのかについて次のように説明されていますが、正直良く理解出来ていません。
2月11日は、神武天皇(日本神話の登場人物であり、古事記や日本書紀で初代天皇とされる)の日本書紀における即位日(辛酉年春正月、庚辰朔、すなわち、旧暦1月1日(『日本書紀』卷第三、神武紀 「辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」))の月日を、明治時代にグレゴリオ暦での具体的な日付として推定したものである。
今日は、日本国民の中にも、日本という国に対していろいろと思いを馳せる人も、少なくないのではないでしょうか?
日本は好きだが日本国は愛せない
私と付き合いの長い人はご存じだと思いますが、私は日本という場所は好きですが、日本という国に対する愛国心はありません。その理由については、一昨年12月に一度「国や郷土を愛するということ」という記事で触れております。
そもそも、今世紀に入ってから、特に2012年の第2次安倍政権以降、日本政府からは国民を守るという気概を全く感じることが出来ず、逆に国民を殺しに掛かってきているということがありありとわかります。相次ぐ増税や諸制度の改悪しかり、国民の大半が猛反対しているマイナンバーこと国民総背番号制の強制しかり。単に無能なだけの政府であればものの弾みで国民のためになることをすることもあるとは思いますが、ピンポイントで国民を守ってきた制度を壊し、それを国民を殺す方向に作り替えている以上、単なる無能よりもさらにたちが悪いです。
そのような政府に対する「愛国心」をことさらに煽る連中、当人たちにそもそも愛なんてあるのでしょうか? 利権と打算にぶら下がっているだけの連中に愛などを説かれても全く響きませんし、それどころか「お前が言うな」という感情すら芽生えてきます。
しかし、自分たちは愛されることを何もしてこなかった政府(に限らないが)を愛することなんて、よほどのお人好しか愛の意味を取り違えている人間でもなければ到底不可能です。無償の愛? 生身の人間にそんな芸当は出来ません。我々は神ではないのですから。その意味では、漫画「北斗の拳」で、ユリアに愛を諭された程度で心を入れ替えた山のフドウなんて、私に言わせればクソザコナメクジです。現実としてあり得ません。
郷土愛もしかり。今回はあまり多くを語りませんが、自分が十代の頃を過ごしていた地域に対しては、憎悪や蔑視の念こそあれど、愛することなんてどう頑張っても不可能です。私があの地域から受けた屈辱的な仕打ちを忘れることなど、一生掛かっても不可能です。そしてあの地域の出身という理由で受けた差別に対しても。
愛国心を持てるためには政府を愛すべき存在に替える必要がある。
私は他人にろくに愛されたことのない人間ですので、「愛」というものがどのようなものかについては、山のフドウよりもさらにわかりませんが、それでも、「愛」という言葉が「利権」や「打算」や「崇拝」「従順」などと同義語でないということぐらいはわかります。もちろん、ユリアのように権力を持った人間に屈服することが「愛」ではないことぐらいは百も承知です。
愛することの出来ない政府を愛するためには、次のいずれかが必要です。
- 愛することが出来る政府に取り替える(つまり政権交代)
- 愛することが出来ない国から脱出する
移住資金や語学力に問題の無い人であれば、もはやとっくの昔に2番目のオプションのほうを選択していると思いますが、一時はそれを目指したものの結局不可能とわかってしまった私のような人間は、より困難な1番目のオプションに期待するしかないのです。
そのためには、野党に頑張ってもらうしかないのですが、ただ野党頑張ってと言うだけでは一部を除き支持者を向いた動きをしてくれませんので(現行体制になってからの立憲民主党、おまえらのことだよ!)、支持者が、というより国民・市民が、野党を「育てる」必要があると思います。
まあ、そのように偉そうなことを言っている私も、特に昨年立憲民主党の党員になってからは、皮肉なことにそれを出来ていないのですけどね。これについては大いに反省して、今後に繋げなければなりませんが、忙しさにかまけて身動きを全然取れていないというのが実情です。
既に、今年度の立憲民主党党大会は終わってしまいましたが、自分は足を運ぶこともネット中継を閲覧することも出来ませんでした。とはいえ、今年こそはもう少し党員らしいことを出来ればと、思わずにはいられません。まだ立憲パートナーズという身分だった頃のほうがまだ精力的に動けていたくらいですしね…(今もパートナーズの一員だけど)。
国や郷土は崇拝の対象ではない。
いわゆる愛国者の言動を見ていると、そもそも彼等の言う「国」がなんなのかわからなくなりますし、自国の政府からどんなひどい仕打ちを受けてもそれに抗うことをしようとしないばかりか抗おうとする人々の妨害すらしてくる時点で、「愛」を語る資格すらありません。
先述の通り、「愛」を知らない私でも、それが「崇拝」や「従順」と同義語でないことぐらいはわかります。しかし、いわゆる愛国者の言う「愛国」は、「崇拝」に置き換えることが可能なのではないかと思えてなりません。
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こんなことでは、いわゆる愛国者から人権や主権在民という概念がすっぽり欠落しているのも、納得は出来ませんが理解は出来ます。しかし、これは「崇拝」してしまっている当人にとっても不幸にしかならないと思うのですが、当人たちはそれに気づかないのでしょうか?
主権在民を日本国民に根付かせるためには、それこそ政治を変える必要があるのですが、ここまで来ると卵が先か鶏が先か問題になってしまいますね…。どうすればよいのだろう。
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