西洋のベッド
日記を書いていると、自然と次の日の日記のことを考える事が分かった。
日記には自分が写るから、部屋の小さなゴミにも目がいき、つい掃除をしてしまう。
掃除という工程をひとつ増やすだけで、その後に飲むコーヒーに情報が乗った気がした。
小学5年生の頃、マンションの屋上から飛び降りて空を飛ぼうとし、結局のところ一週間、一歩を踏み出せなかった。
身を投じたかった訳では決してなく、本当に物理的に空を飛ぼうと考えていた。
あの日以来、自分の思い通りにはならない事を知る。
それでも思い通りにならないという事実を否定し続けて、気づけば30年が経過している。
ガストに行きたかったが、洗濯機が回っていたり、午後には会議があったりして、なかなかタイミングが合わなかった。
朝のファミレスには、美しい光が差し込んでいて、その光が時間の流れを止めている。
家の近くには病院があり、今日もサイレンが誰かを運んでいった。
未来のような都市に住みたい。
そこでは新しいスポーツが盛んで、スタジアムの周りのベンチにはアイス屋があり、そこで待ち合わせをするのが気持ち良い。
未来の色に疲れたら、町を出れば肌色の土で固められた歩道があり、歩道の外には雑草と花が生い茂っている。
都会に慣れたラクダのような生き物が、その歩道を送迎してくれる。
水をこぼすと床を拭かなければならない。だがそれよりも先に、世の中には自然があるという思考が浮かび、水を拭くのが少し遅れてしまう。
そこからさらに連想が広がり、水が光を反射し、そこに電子が現れ、遠くでは風が吹き、山が噴火していた。
仕事以外で誰かに電話をかけたことがない。
用がないという理由で電話をしてこなかったが、本来、人は人に用事があるものだろう。
自分の悩みは自分でしか解決できないと思いながら、実際には自分でも解決できたことがまるでない。
人は人に本質として何を話しているのだろう。
そして、その後の追及をいつも諦めてしまう。
自分の身の回りだけで今は精一杯という訳だ。
年齢を重ねてきて、いよいよどんな老人になるのかという話になる。
もしお金があれば、この部屋とあの部屋をうねるような廊下でつなげられないかとプロに相談し、構造上無理だと言われても、頭の中に構造があるのだから実際にもできるはずだ、などと、自分にしか理解できない概念を押し付けるような老人になりたい。
そして、色の細部までこだわった所で、結局は西洋の大きいベッドが似合うだけの部屋に居ついてしまうだろう。
そんな老人はきっと不快なので、いや、そんな老人にはなるまいと、うまく落としどころをつけるというライフハックを実践した。
さて、冷蔵庫にはにんじんと玉ねぎが残っている。どう調理していこうか。
今の自分は、自炊に特化している。
それに付随して、眉毛を整えることも、次への第一歩となるだろう。