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風が生活音を切る

喫茶店の朝食が好きだ。

例えば、店内で良い曲が流れていると、その楽曲の詳細をスマホで調べたくなる。
この人の他の曲はどんな感じだろうとか、今度趣味が合う人がいたら共有したいなとか、そんな気持ちからの行動だ。
一方で、ただ良い曲だなあと思いながら穏やかな気持ちになり、調べることを一切せず、心身ともに静寂へ沈んでいく瞬間もある。
探求心よりも、その空間に思考を溶かしてしまいたい気持ちが勝つのだ。

普段の俺は、ひとりで考え事をしている時間が多い。
暇さえあれば、以前考えた事象の続きを考えている。
その続きについて考える行為こそが、自分にとっての時間の経過を感じさせる。
思考を始めてもまとまらない日は特に最悪で、無駄な一日だと感じる事は、時間の経過を決定付け、更にそれは頭に深く残る。
悪い日の方が後にねっとり残りにくいのは、次に同じ経験をしないようにという、体からの配慮なのだろう。

喫茶店で体が空間に溶け込んでいるとき、自分の思考が止まっているように感じる。
思考が止まるということは、時間も止まるということだ。
時間が止まっているにも関わらず、空気中に見える光の反射による結果と、生活音が風を切っている事象だけが体に突き刺さり、更に透き通る。

時間の停止こそが自分にとっての至福で、この時間が一生続けばいいと思う瞬間がある。
しかし一時間半も経つと、その空間に飽きて外を歩きたくなる。
外に出ようとすると、まだ空は朝の色をしていることが多い。
これまでは、良い音楽と良い空間が自分の時間を止めてくれていたのだと思っていたが、そもそも今日の自分はかなり早起きをして、かなり早い時間に喫茶店へ来たのだ。
つまり、時間を止められたのは、自分が仕掛けた結果でもある。
元気な自分は、時間を止める方法を知っていて、しかもそれを実行できるのだ、などと考えていると、体がアメフト選手のようにどんどん大きくなっていくのを感じた。
いや、しかし、こんな経験ができるのは、この素晴らしい喫茶店のおかげだ、と考え直すと、体は元のサイズにすぐに戻っていった。
理想の体型でもないのに、頭の中で自分の図体を大きくしてしまうのはなぜだろう。
やはり本能的に大きい男はカッコいいと思っているのか。
そう思いつつも、最近のサラリーマンの筋トレブームにはどこか違和感がある。
体だけ大きくなっているのに、パソコンは大きくならないからだろうか。
むしろ体のサイズに合わせてパソコンのサイズも変える需要があるのでは。

自分の今実際に開いている目の開き度合に限らず、自分にだけ感じる精神的な目が完全に開いているのを感じる。
実際の目はいつも眠そうだ。
俺は眠ることがとにかく好きだが、それは肉体の欲求が大きい。
精神も眠たがりだが、肉体はもっと眠りたがっているのだ。

そして、喫茶店を出たがっているのにも関わらず、喫茶店に出ない、というのが15分ほどある。
もっとこの時間を享受できるはずだろみたいな思いと、そもそも現実的な話、次は俺はどこに行くんだよという話である。
俺には友達がいないので、喫茶店を出たあとの予定が何もないことが多い。
今の現状からなんとなく抜け出して、まだ見たことのない場所にたどり着きたいという思いが普段の前提からあるものの、しかしそんなことはほとんど起きないと知っていて、結局たどり着いた俺の時間を止めてくれる、というのが喫茶店のモーニングである。

そこまで考えて、何か解決した気になり、俺は喫茶店を出る。
夜食の食材を買わなければいけないのに、リストを喫茶店で作るのを忘れていて、道端でリストを作る俺がいた。